2026年4月に発生したリキッド・リステーキング・プロトコル「Kelp DAO」における大規模なハッキング事件は、単なるサイバー犯罪の枠を超え、米国の司法権力と分散型ガバナンスが真っ向から衝突する異例の法的紛争へと発展しました。

米国の法律事務所Gerstein Harrow LLPが、北朝鮮による過去の不法行為に対する損害賠償として、Arbitrum DAOが凍結したイーサリアム(ETH)の差し押さえを申し立てたのです。

この動きは、ハッキング被害者への資金返還プロセスを根底から揺るがす事態となっています。

米法律事務所による異例の差し押さえ申し立て

米国の法律事務所であるGerstein Harrow LLPが、ニューヨーク連邦地方裁判所から発行された「抑制通知 (Restraining Notice)」および「執行令状 (Writs of Execution)」を背景に、Arbitrum DAOに対して凍結資産の移動を禁止する法的措置を講じました。

この措置の目的は、北朝鮮政府から巨額の損害賠償を勝ち取っているクライアントのために、ハッカーが保有していた資産を回収することにあります。

8億7700万ドルに及ぶ巨額賠償請求の背景

この法律事務所が代表を務める原告団は、2010年、2015年、2016年の3回にわたり、北朝鮮を被告とする米国での裁判で勝訴しています。

これら一連の判決により、北朝鮮には合計で8億7700万ドルを超える賠償金および利息の支払いが命じられています。

Gerstein Harrow LLPの弁護士チャーリー・ガースタイン氏は、Arbitrum DAOのフォーラムにおいて、ハッキングに関与したグループが北朝鮮の国家機関と密接に関連している以上、盗まれたETHは「北朝鮮が利害関係を有する財産」であると主張しました。

この論理に基づき、同事務所は北朝鮮の債務を充当するために、現在凍結されている資産を差し押さえる権利があると訴えています。

Kelp DAOハッキング事件の全容と資産凍結の経緯

問題の発端となったKelp DAOへの攻撃は、2026年4月18日に発生しました。

この攻撃により、プロトコルからは約2億9200万ドル相当の資産が流出する甚大な被害が確認されています。

北朝鮮系ハッカー集団「TraderTraitor」の関与

オンチェーン分析の結果、この攻撃は北朝鮮の国家支援を受けるハッカー集団「ラザルス (Lazarus Group)」のサブグループである「TraderTraitor」によるものと断定されました。

彼らは高度なソーシャルエンジニアリングとスマートコントラクトの脆弱性を突き、短時間で多額の資産を奪取しました。

Arbitrum Security Councilによる緊急措置

ハッキング発生から数日後、Arbitrumのセキュリティ評議会は、ハッカーに関連するウォレット内に留まっていた3万766 ETH (当時約7300万ドル相当)を凍結する緊急措置を講じました。

この迅速な対応により、被害額の一部がオンチェーン上に「ロック」され、被害者救済への道が開かれたかに見えました。

項目内容
ハッキング発生日2026年4月18日
推定被害総額約2億9200万ドル
凍結されたETH量30,766 ETH
凍結資産の評価額約7300万ドル
攻撃主体TraderTraitor (北朝鮮関連)

「救済」か「回収」か:被害者間で対立する利害

現在、Arbitrum DAO内では凍結されたETHの扱いを巡り、深刻な議論が巻き起こっています。

当初、Aave Labsなどの主要なDeFiプロジェクトは、この資金を「DeFi United」と呼ばれる救済基金に充て、Kelp DAOの被害者に分配する案を提示していました。

別の被害者による「横取り」への懸念

しかし、Gerstein Harrow LLPによる法的介入により、この救済案の実行が危ぶまれています。

Arbitrum DAOのメンバーからは、「北朝鮮の負債を、今回ハッキング被害に遭った別の被害者に肩代わりさせるようなものだ」という強い反発の声が上がっています。

もし法律事務所の主張が認められれば、Kelp DAOのハッキングで資産を失ったユーザーに返還されるはずの資金が、過去の北朝鮮関連事件の被害者へと流れることになります。

これは、仮想通貨コミュニティにおける「盗難資産は元の所有者に帰属すべきである」という倫理観と、米国の司法における「国家の不法行為に対する債権執行」という法的要請が激突している状況と言えます。

分散型組織 (DAO) と法的強制力のジレンマ

本件のもう一つの重要な論点は、「DAOに対して米国の裁判所の命令がどこまで実効性を持つのか」という点です。

Gerstein Harrow LLPは、もしArbitrum DAOが凍結資産を移動させた場合、「法廷侮辱罪」に問われる可能性があると警告しています。

DAOの法的地位とガバナンスへの影響

  • 責任の所在: 特定の代表者が存在しないDAOにおいて、誰が法廷侮辱の責任を負うのかが不明確です。
  • ガバナンスの硬直化: 法的リスクを恐れるガバナンス参加者が投票を控えることで、本来必要な救済措置が停滞するリスクがあります。
  • 法執行の先例: 今回のケースが認められれば、今後あらゆるDAOの凍結資産が米国の法律事務所による「ターゲット」にされる可能性があります。

Gerstein Harrow LLPは、過去にもTether社が凍結した「Heco Bridge」のハッキング資金や、Bybitのハッキング資産に対しても同様の差し押さえを試みています。

オンチェーンアナリストのZachXBT氏などは、同事務所の手法について、他者の調査結果を流用して法的請求を行う姿勢を批判していますが、法律事務所側は正当な権利行使であるとの立場を崩していません。

まとめ

2026年のKelp DAOハッキング事件は、暗号資産の凍結という「オンチェーンの正義」が、米国の司法システムという「オフチェーンの権力」によって上書きされようとしている象徴的な事例です。

凍結された約7300万ドルのイーサリアムは、現在のハッキング被害者への補償に充てられるべきか、それとも北朝鮮の過去の罪に対する賠償に充てられるべきか。

この問題の決着は、今後の暗号資産市場における資産凍結の法的リスクを定義することになるでしょう。

DAOが米国の法執行を無視して資金を配布するのか、あるいは法的圧力に屈して救済を断念するのか、Arbitrum DAOの次なる決断に世界中の注目が集まっています。

分散型金融の理想と現実的な法的執行の狭間で、被害者救済の道は未だ不透明なままです。